マクラーレン

アイルトン・セナのマクラーレン時代

1991年アメリカGP
1988年にはホンダエンジンを獲得したマクラーレンに移籍し、アラン・プロストとのF1史上最高ともいわれる最強タッグを結成。チームと2人はシーズンを席巻し、16戦15勝、10度の1-2フィニッシュを記録した。セナはこのうち当時F1史上最多勝記録となる8勝を挙げ、同じく最多勝記録歴代2位である7勝を挙げたプロストを下し、第15戦日本GPで自身初のチャンピオンを決めた。
しかし、一方で第13戦ポルトガルGPにおいて、プロストに幅寄せ。このことで2人の間に溝が出来始める。

1989年は第2戦サンマリノGPで、シーズン初勝利。しかし、このレースでセナは「1コーナーを制した者が優勝の権利を有する」というプロストとの紳士協定を破り、一周目の2コーナーでプロストを追い抜いてしまう。これは両者の見解の相違であったが、このことで2人の溝は決定的なものと成り、チームにとっては大きな問題となった。
この年セナは6勝を挙げたが、リタイヤが多く、優勝以外でも堅実な走りを見せたプロストがシーズンをリード。両者は第15戦日本GPにおいてシケインで接触。セナは復帰するもシケイン不通過(その後、押し掛けに理由が変更される)で失格となり、プロストがチャンピオンに決定した。
決定劇が、チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナはFIA(というより当時のFIA会長だったジャン=マリー・バレストル)から「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス剥奪の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた後だった。

1990年は、フェラーリに移籍したプロストとチャンピオンを争うこととなり、3年連続両者の争いとなった。最終的にセナは6勝を挙げ、2度目のチャンピオンに輝くが、決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に両者が接触するというものだった。2年連続の両者接触という結末は、関係者やファンにとって後味の悪いものとなった。
翌年、セナはこの接触が故意によるものだったと認めている。セナは前年の接触をプロストの故意によるものと捉えており、報復の意図があったことを示したが、大きな批判を受けることとなる。
1990年暮れのFIA表彰式で特別功労賞の表彰を受けた本田宗一郎に『セナ君、おめでとう。来年も、ナンバーワンのエンジン、作るよ』と言われ感極まって涙した。その前のやり取りとして本田はセナに「ナンバーワン、ナンバーワン、ナンバーワン!」と英語で声をかけ、セナは本田に「ドウモアリガトウ」と日本語で返した。その時タキシード姿で撮った写真が、両名にとって生涯最後のツーショットとなった。(フジテレビ『F1ポールポジション』より)。

1991年、第2戦ブラジルGPで念願の母国初優勝を達成。ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中での勝利だった。これを含め、当時の新記録となる開幕4連勝を記録するが、その後ウィリアムズチームが巻き返し、ナイジェル・マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。
第10戦ハンガリーGP直前、本田宗一郎が死去。弔い合戦となり喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを達成、6戦ぶりにポディウムの頂点に立った。続くベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録する。
チャンピオン争いは、第15戦日本GPまで縺れこむが、このレースでマンセルは10周目に1コーナーでスピンアウトし、リタイヤ。セナが3度目にして生涯最後のチャンピオンを獲得した(シーズン7勝)。
ウィリアムズのマシンは、中盤以降速さではマクラーレンを上回っていたが、信頼性に乏しく、トップ走行中にストップする場面もあった。一方のセナは16戦中15戦完走、入賞14回と勝てないレースでもポイントを積み重ねていた。シリーズは、この年から全戦のポイントで争われており、結果的にはこれがセナに追い風となった。

1992年は、ウィリアムズ・ルノーが開幕から前年以上の圧倒的な強さを見せ、マクラーレンは劣勢を強いられた。しかし、第6戦モナコGPでは、終盤に開幕6連勝目前だったナイジェル・マンセルとのバトルを制して同年初勝利を飾り、ドイツGPでも終盤のリカルド・パトレーゼの猛追を振り切って2位を死守するなど、時折存在をアピールした。
しかし、優勝3回、PPも1回に留まり、リタイヤはF1参戦中2番目の多さと成る7回を記録。ランキングは4位とシーズンを通すと不本意な結果となった。
また、この年をもってホンダが一時活動を休止する。セナは、ホンダエンジンでの最後のレースとなった最終戦オーストラリアGPを、マンセルと接触しリタイヤで終えることとなった。

1993年
ホンダが去った後のマクラーレンは、ベネトンと同じフォードV8エンジン搭載(正確にはべネトン用ワークス最新・仕様エンジンのワンランク下の型落ちカスタマー仕様エンジン。後にマクラーレンの代表であるロン・デニスが政治力を巧みに使いワークス仕様エンジンを獲得)のマシンで、ウィリアムズ・ルノー陣営と比べて絶対的に不利な情勢と見られていた。
ウィリアムズの加入を意図しながら、叶わなかったセナは、マクラーレンのマシンに不満を抱いており、1993年の休養も仄めかしていた。しかし、結果的には第7戦カナダGPまでを1戦ごとの契約で走り、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、全戦に出走した。
開幕戦南アフリカGPでは予選・決勝共に2位と下馬評を覆す健闘を見せ、続く第2戦ブラジルGPではレース途中の豪雨も味方となり、デイモン・ヒルを追い抜き、優勝。更に続くヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで前を行く4台を鮮やかに抜いてトップに立ち2連勝。予想外の奮闘を見せた。
第6戦モナコGPでは、シーズン3勝目を記録。グラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、また1989年からの同GP連勝記録を5に伸ばした。このレースでは、PPのプロストがフライングにより後退、その後トップを走行していたミハエル・シューマッハもトラブルでストップ、また、その後セナを追っていたデイモン・ヒルとゲルハルト・ベルガーが接触するなど、セナにとって追い風となる出来事が立て続けに起こったことで話題となった。
その後は、ウィリアムズが本調子となり、セナは優勝はおろか表彰台にも立てないレースが続く。シーズン全体で見ればウィリアムズとのマシン性能差(一説によれば、ルノー製V10とのエンジンパワーは40〜50馬力程の差があったという)は如何ともしがたく、プロストはおろか新人のヒルの後塵も拝すことになる。また序盤の好成績からベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したものの、そのベネトンも序盤にはまだ未搭載だったアクティブサスペンションやトラクションコントロールを装備することでマクラーレンと互角の戦闘力を得、シーズン中盤ではシューマッハとの争いに敗れる場面が続いた。第13戦イタリアGPでのリタイアでセナはこの年のタイトル獲得可能性を失い、続く第14戦ポルトガルGPにて、プロストのチャンピオンが決定した。
しかし、念願だったウィリアムズへの移籍が決定した事や、王座を手中にしてこの年限りの引退を決めていたプロストに最後の意地を見せた。セナは第15戦日本GPで、予選2位からスタートの第1コーナーでPPのプロストを抜き去ってトップに立ち(レース当日のフリー走行時に、スタート時のラインを徹底的に走り込んだ事で、ライン上の埃を払い除けた事が好スタートを決める要因となった)、雨の中優勝を飾ると、最終戦オーストラリアGPでは、この年初となるPPを獲得。レースでも、タイヤ交換時以外はトップを譲らずシーズン5勝目、通算では41勝目を記録。これが生涯最後の勝利となった。
そのオーストラリアGPの表彰台では、長年の確執を終わらせるかのように、両者が立ち並び握手をする一幕も見られ、一つの大きな時代の終焉をファンに見せた。


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